福岡県住宅供給公社

公社について

職員、OBインタビュー

職員、OBインタビュー紹介

OBインタビュー

公社職員OB

Kさん

Interview

公社ではどのような仕事をしてこられましたか。楽しかったり大変だったりした思い出はありますか。

 私は昭和42年に公社に入社して、最初は総務部に配属されました。当時、公社が所有する賃貸住宅の土地建物等を一覧で管理する台帳がなかったことから、公社所有資産の台帳を作成する仕事を任されました。県内の各市町村をまわって調査しながら、3年ほどかかって台帳を作成しました。
 当時の本社は、西中洲の九州相互銀行のビルの4階にありました。エレベータもなく階段で昇り降りしていましたね。

その後、管理部に異動されましたね。

 管理部では公社賃貸住宅の入退去の手続きを担当しました。当時は民間の賃貸住宅よりも家賃が安かったので、抽選になることもよくありました。須崎ビルができたときには、立地が良く人気が高かったため、抽選の列が九州相互銀行ビルの廊下から階段にまで伸びていたことを覚えています。
 一方で、昭和20年代に建設された賃貸住宅で浴室のない物件などは人気がなく、区役所に行って物件の紹介をお願いするようなこともしていました。

その後、分譲の仕事もしておられますね。

 昭和56年に異動になり分譲計画の策定や住宅の販売を担当しました。当時は民間の不動産会社に分譲団地を一から開発する力はなかったので、公社が土地を仕入れて開発し、ハウスメーカーと協力して住宅を販売したり、県営や市営住宅の用地として県や市に土地を譲渡したりしていました。
 壱岐団地などは今は大きな街ですが、もともと何もなかったところを公社が開発し、その周辺に民間が住宅を建てたり店舗ができたりして、発展してきたものです。

まさに「まちづくり」ですね。今の公社では考えられないスケールです。

 公社はネームバリューがあり分譲住宅の売れ行きも良く、仕事はやりがいもありましたが、住宅の販売は土日が主で、生まれたばかりの子供達の相手をあまりしてあげることができませんでしたね。たまに土日に一緒に出掛けると、子供達が両腕にぶら下がるほど喜んでいました。
 平成に入ってからは、長期保有土地処分や中期経営計画策定など、いくつかのプロジェクトチームの担当を命ぜられました。長期保有土地の中にはなかなか処分のできないものが多く、苦労したことを覚えています。

仕事以外ではどうでしたか。

 当時の公社はクラブ活動も盛んで、特に野球部は強かったですね。私はセカンドを守っていました。定期的に県の住宅課などと試合をしたり、官公庁野球大会で広島まで遠征に行ったりしていました。これは楽しかった思い出ですね。

Kさんは今も公社の小笹団地にお住まいですね。

 結婚して小笹団地に引っ越してきてから40年ぐらい住んでいます。最近は古い住棟が建替えられてクラシオンになったり、公社が売却した土地に大きな分譲マンションができたりして、団地の様子も大きく変わりました。住民の高齢化が進んでいましたが、新しい住宅には若い人も多く入居してきています。ただし、新しい住宅では団地自治会のような活動はありませんので、昔のような住民同士のつながりは薄いですね。

これからの公社に、どのようなことを期待されますか。

 民間企業は収益性や回転率を重視していることから、民間の賃貸住宅は比較的狭い部屋が多いようなので、公社は公的な機関として、民間があまり手掛けないような物件を供給していくことが、これからの公社に求められることではないでしょうか。